2015年

12月

24日

2015年もあとわずか

 毎年、毎年同じことを言ってますが、早いもんです。もう最近じゃ,月日の経つのが早いことなんかじゃ驚かなくなりました。もう、年末?12月?それもあと10日もないの?ああそお、それがどうした?てなもんで、毎日毎日、バタバタバタバタしてりゃ、そりゃ時間なんかアクセル吹かしてすっ飛んでいきます。患者さんが来て、「あれえ、ついこのあいだ来たばかりじゃないの?」ってカルテを見たら、ちゃんと一月前に受診したっきり、なんてことは日常茶飯の出来事です。この人に12回会って1年が過ぎたかと思うと1年なんてあったんだかなかったんだか。

 それでも、今年は2015年であったわけで、2014年ではなかった。2014年の1年と,2015年の1年と,早さの上じゃたいして変わらないでしょうが、何か変わったのかしらね?まあ、これと言って進歩もなく、その日その時の仕事や用事を淡々とこなして過ごしたと言うところでしょうか。

 この間ある人から「先生の今年の漢字は何か決まりましたか?」と聞かれて、ハタと思ったね。去年は確か骨折したり、死んだ親父の骨を拾ったりしたから、「骨」かな、なんて決めましたが、今年はほんと何なんでしょう。「夢」多く、「想い」は遠く,啄木が寝っ転がって自分の名前を呼んだ青春の頃とまではいきませんが,なんとなく遠くを見つめながら、あくせくやってきた感がありますね。と言うわけで,今年の僕の漢字は「望」かな。

 

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2015年

8月

25日

栄養のセミナーを開きました。

 クリニックの待合室で「目からウロコの栄養療法」と題して、MSSというサプリメントの会社の方に来ていただいてセミナーを開きました。40名くらいご参加下さって、盛会でした。

 講師の伊藤さんは「まったく」無駄のない体型をされていて、栄養の話をされるにはもってこいの感じでした。鉄が大事だの、亜鉛が大事だの、お肉を食べなきゃだめだの、糖質はあまりよろしくないだの、と「うへー」っという内容にもかかわらず、みなさんご熱心に聞き入っておられました。いろいろ漢方を使っても、今ひとつ効果がでない患者さんがおられます。案外、基礎的な『栄養』が不足しているのかも知れない、と最近思います。医食同源、なんて言いますが、この時代そうそう簡単なことではないからね。

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2015年

8月

18日

6周年でした。

 平田ペインクリニックも6周年だそうで、院長の私がボーッとしていて忘れていたら、スタッフがケーキでお祝いしてくれて、びっくりしました。いろいろ各方面の方々に支えられてやってきましたが、スタッフにはほんとに恵まれたね。

 7年目に突入したわけです。その昔「開業して7年目です。」なんて言う先輩諸氏のおっしゃるのを聞くと、へえそんなに経つんだ、と感心してましたが、実際経ってみると、あっという間の6年間ですな。もういっぺん「あっ」といえば12年経つわけで、光陰矢の如しとはほんとにその通り。志ん朝の落語を聞いていると「光陰矢の如しなんて事を申しますが、どういうことかと申しますと、光陰というのは、まあ、矢のようなものだなあ、ということでございまして。」てな枕がありました。まあ、少し、肩の力を抜いて、ゆっくりゆっくり、力を入れるところだけ、ギュッと、なんてことを思っております。ゴルフのスウィングと一緒ですな。今後とも宜しくお願いします。

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2015年

8月

10日

暑い!

 暑い。夏だから当たり前だけど、暑い。雨も降る気色はあるが、降らない。降れないんじゃないか、暑くて。クリニックの南の面に並べたトネリコの鉢植えが軒並み葉を茶にしてきつがっている。風が吹くと、焦げ茶に焦げた葉っぱがパラパラと落ちて、元気だったトネリコも立ち枯れる寸前の様子だ。水をやっても、やる傍から乾いていくようで、日照りも並じゃないね。

 昼休みに往診に出ると、カッと、熱気が肌を刺すようだ。光太郎は「太陽は薄き板のようなものにて我が横面をぴしりと打つ」なんて書いたけれど、そんなもんじゃないね、この暑さは。炎熱だね。冷たいビール、冷たいハイボール、五臓に沁みるようです。しかし、この暑さの中で熱い珈琲が旨い。がっちり濃く淹れた熱い珈琲が腹に落ちて、朝が始まります。

 アイスコーヒーなんて飲み物がありますが、おいしいんでしょうけど、飲み終わる頃、氷と水に薄まって、なんだか騙されたみたいじゃありません?

 

 トネリコにも熱い珈琲をやってみようかな。あっという間に枯れたりして。

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2015年

7月

27日

金子みすゞ・金澤翔子ーひびきあう詩と書ーを観た。

 僕は書が好きでいろいろ書展を観に行って、同じ愛好家の人達と「ああだこおだ」と言い合うのが楽しい。青山杉雨や今井凌雪の遺作展なんか、なんかもう恐れ入った感じで、数時間見惚れて帰ってきたもんです。反対に少しばかり見る経験を重ねたもんだから、大家と言われる方々の作品でも「なんだかなあ」とがっかりしたりして、そうかと思えば、無名の地方の作家の作品に「うむむ」と惹き付けられたりして、まあ、書を観るのが好きなんです。

 で、この「金子みすゞ・金澤翔子ーひびきあう詩と書ー」は、なんと言いますか、さらりと言えば、ジーンときました。感心したり、恐れ入ったり、惚れ惚れしたりと、いうのとはまるで違う経験です。金澤翔子さんが10歳の時に書いたという般若心経の線の強さというか、なんというか、小細工など微塵もない、書き手の生きていることの運動そのものが書かれた時のままにそこにある気がしました。禅語のひとつだそうで、知らなかったのですが、「両忘」、過去も未来も忘れる、今この時、という意味の言葉の大書を前にした時は大きな団扇でバサリとあおがれたようでした。金子みすゞの詩文を書いた作品群は、まさしく言葉が所を得たように紙の上に際立っていました。「心」「道」とか、一字の大書もこの書家ならではの世界でしたね。「心」なんか「ああ、そうよね。心はそうよね。」と観る者を黙らせます。

 なんだかよくわからないけれど、涙がこぼれそうでしたね。この書家がダウン症であることが「鑑賞」に影響していることは、それはそうなんでしょうが、「書」としての完成度とか、熟達度とか言うものとは別の、「並々ならぬもの」が会場に満ちていました。もう、会場のベンチに座り込んで、じっと目をつぶってましたもんね。そうしていても、何かが迫ってくる、そんな書展でした。

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2015年

7月

12日

船遊び?

 日本疼痛漢方研究会という集まりが東京であって、今年は僕が会長と言うことで、少し頑張ってきました。おかげさまで、会は盛況で言うことなし、で良かったんですが、その後、漢方の仲間が「慰労会」を開いてくれました。なんと東京湾の上。

 隅田川河畔の船宿から一艘の屋形船に乗り込んだ「漢方大好き集団」はゆらゆら揺れる船上の座敷に座って、「船酔いの前に、リョウケイジュッカントウだ。」とか「イヤイヤ、ゴレイサンだ。」とか言ってましたが、程なくガンガン飲んで、バクバク食って、酔って揺れてるんだか、なんなんだか、分からなくなっていましたね。 

 いや、気持ちが良かった。隅田川から東京湾にずだだだっと出て行って、他の屋形船やクルーズ船が集まっている所に停まって、だははは、っと哄笑を吹き上げてました。みんないい顔してましたね。一日お勉強した疲れなど微塵も見せず、

「おう、あれがカチドキバシだそうだ。勝ち鬨を上げよう!」

「ここはお台場の沖らしいぞ。」「おお、そうか!」とか、よくわからん感激に浸ったりしておりました。


 

 暑かった昼の気配はどこへやら、座敷の窓から入ってくる涼しい川風やら海風が、慣れない勉強と一気に飲んだビールや焼酎で熱くなったこころとからだを冷やしてくれました。

 このまま海を下って博多湾に行けないものか、と思ったくらい。いや、いい一日でした。みなさん、ありがとう。

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2015年

7月

07日

富山に行った。

 日本東洋医学会という集まりがあって、富山に行ってきた。小松空港まで飛んで、金沢から北陸新幹線にちょっと乗るルートで、夜7時頃富山着。福岡を3時に出たんだから早いもんだ。

 富山は梅雨だというのに、晴れ上がって真夏の雰囲気だった。ホテルから学会場までの道の途中に小さな川があって、流れに沿って遊歩道が整備されていた。万葉集の一首を刻した石碑があったり、彫刻が置いてあったり、なかなか雰囲気のいい道だったんで、学会の最終日、朝早く起きてその遊歩道をずんずん歩いてみた。地理も何にも分からないけど、行けるとこまで行ってやれ、で、ずんずん歩いた。桜の季節にはさぞかしきれいだろうといった桜並木があったり、殿様とその愛妾との悲劇があったと言う場所があったり、結構退屈せずに歩いた。

 松川というその川は神通川という大きな川に流れ込んでいて、僕はその連結点を通って神通川の河畔にたどり着いた。狭い土手の道からだだっ広い河畔の空間にぽいと放り出されたようだった。その広々とした河畔にはグランドゴルフ場があったり、夏には水を引いて子供たちが遊べるような自然プール付き公園があったりして、雲ひとつない空の下で僕は手足がえらく自由になったような気分だった。帰らないと、福岡に帰れないから、仕方なく帰路についたけれど、半日くらいそこいらに寝っ転がって、空を眺めていたい気分だった。

 学会もなんだか面白くなくて、長旅にも疲れて、なんだかなあ、と思っていたけれど、この散歩は良かったね。

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2015年

6月

22日

オオムラサキがやってきた。

 一緒に漢方の勉強をしているT’先生が、オオムラサキを持ってきてくれた。羽化したばかりという成虫が2匹と今にも羽化しそうなさなぎが3体。幼虫から育てたんだそうだ。僕がかって昆虫少年で、どうしてもオオムラサキを捕まえられなかった無念を話したのを覚えていてくれて、わざわざ持ってきてくれた。初めて見るオオムラサキ。籠の中でゆっくり動く羽の背に、あの鮮やかな紫がかいま見える。

 僕の叔父は高校の生物の先生で、昆虫のことに詳しく、夏休みになると僕を英彦山や霧島に昆虫採集に連れて行ってくれた。珍しいトンボや蝶をずいぶん集めたが、オオムラサキだけは見ることさえなかった。昆虫図鑑に燦然と輝くそれは、いつしか僕の頭の中で、捕まえることはおろか見ることさえできない昆虫の中の昆虫、蝶の王様のような存在に育って、あこがれだけがその紫の羽の色と共に残っていたのである。

 それが、今、目の前で羽ばたく。T先生は毎年羽化させては標本にしているとかで、水分のやり方だとか、めんどうになったら放してやれば勝手に生きていきますよ、だとか、いろいろ伝授してくれたが、僕は半ば夢のような気分でしばらく見とれていた。「ほら、こいつはもうすぐ羽化しますよ。」と言って、ひとつのさなぎをコツンと叩くと、なかで激しく羽ばたく羽音がするではないか。僕はもう完全に少年に戻って、遠い夏の日、美しい蝶を捕まえて間近にその姿を見た時の胸の鼓動を久々に感じていた。

 オオムラサキたちが入っている籠を院長室のドアノブにつり下げ、患者さんがちょっと空くと、そそくさと様子を見に行く。午前中はなんだかみんなおとなしく、羽を合わせてじっとしている。翌々日にはサナギはみんな孵って、籠の中は賑やかになった。1匹は、うまく羽が拡がらず、いびつになってしまった。何か僕が悪いことをしたんじゃないかと、T先生に確認したら、良くあることで、僕のせいじゃないと言われて、ほっとしたりもした。部屋にオオムラサキがいる。なんとも言えない小さな興奮が数日つきまとった。

 けれど、最初から感じていたある気持ち、うっすらとした心の揺れのようなものが日に日に確かになって来た。「この蝶たちは空を飛びたがっている。」「この美しい羽で風の中を羽ばたいてこそ、オオムラサキじゃないか。」

 高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」の悲痛さが身につまされて思い出された。「返そう。この蝶たちを山に返そう。」そう決心して、僕は午前中の診療が済むと、オオムラサキたちを車に乗せて、近くの山に向かった。どの辺に放てば良いのかわからないが、山道から脇にそれた渓流の傍で、僕は籠を車から降ろし、籠を開けた。すると、蝶たちは分かっていたかのように、開いた出口の方にもぞもぞと歩いてくるではないか。小さく開いた籠の窓から、指を入れると、1匹のオオムラサキの雄が僕の指を伝ってするりと外に出てきた。そしてしばし、籠にとまって羽を数回動かしたと見るや、さっと飛び立った。梅雨の湿った空に羽ばたく彼は、瞬く間に森の向こうに消えていった。次々に籠から出して、空へ放つ。次々に空に消えていく。羽音も残らぬ。聞こえるのは強い渓流の音ばかり。僕はなんとも言えず神妙な気分で、森と空を眺めた。蝶を放つ、ただそれだけの行為だが、僕は何かが今分かったような気がした。オオムラサキが飛び立ち、空に消えていった。おそらくは無音のその数秒間、大きな音響が僕を包んだかかのようだった。

 曇り空を背景に「いまこそ」と羽ばたき去るその姿を僕はずっと忘れないだろう。輝く紫。図鑑の中のあこがれは、今、森の中の葉陰に羽を閉じて休んでいるに違いない。

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2015年

3月

01日

仙台で。

佐藤忠良記念館の一室、薄いクリーム色の壁に映し出されたその人影に釘付けになった、とは言い過ぎかもしれないが、小さく息を呑んだのは確かだ。その人影は、壁から少し離れておかれた女性の座像、「帽子・夏」と題された有名な彫刻にやや斜めからライトがあたって現れたものだった。彼女は彫刻と同じようにつばの広い帽子をかぶって座っていた。夏の風に吹かれて、帽子をかぶって少しうつむいている女性。パンツの短めの裾に風がそよいでいるのが見える。裾からはみ出して、つま先立つ足から健康な歌が聞こえるようだ。影だけれど、その人は今にも動き出して、椅子から立ち上がり、いきいきとした声で何かを言うのではないか。今日、生きていることの肌に沁み込むような実感、不安と期待が入り交じる明日への眼差し。僕は本気でその影の彼女に名前を訊いてみたい衝動に駆られて壁に近寄っていった。

 影には肌があり、臭いがあり、鼓動があった。親しげな声をかけてくれることが分かっていながら、それが永久に訪れない時間の中で、「あなたは、、、」と声にならない声が胸の辺りで小さな渦になっていた。

 そんな「影」があるなどと、知っているはずもない。佐藤忠良記念館があることさえ、行ってみてはじめて知ったくらいだ。時間つぶしにふと立ち寄った宮城県美術館での邂逅だった。

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2014年

12月

04日

今年もあと3日

 今年もあと3日。寒波が急にやってきて、寒さに慣れぬ肌身は冷え冷えと、師走はいつにも増してバタバタと、日が過ぎていく。

 今年の「漢字」は「税」なんだそうな。偉いお坊さんが選んだんだから、深い意味があるんだろう。個人と社会を繋ぐ最も明解な現実として「税」があるとすれば、今年は「税」がクローズアップされた年ではあった気がする。

 私個人の漢字は何か。いろいろ考えたあげくに、私の今年の漢字は「骨」となった。

 9月末にひょんなことで右足の小指の基節骨という奴を折った。骨折である。痛かった。12月に入るまで、常に折れたところに意識があった。レントゲンでくっきりと写った骨折線は網膜に焼き付いてしまった。軽い方だとは言え、歩く度に痛く、2日ほど松葉杖の生活もした。それがだんだん良くなっていき、早歩き、駆け足まで出来るようになった時は、「ほお、やっぱり治るんだな。」と人体の不思議に感じ入った。

 骨折をした9月のはじめには、父が急逝した。87歳の生涯を終えて、父はクリスチャンだから、天国に行った。山の上の火葬場で骨となった父と対面した。カンカンカサカサに焼けて出てきた父の骨と生前の父の面影は容易に繋がらず、収骨を困惑と冷静の狭間のようなこころもちで行った。

 と、言うわけで今年の漢字は「骨」。こんな風に My  漢字を考えたことはなかった。さて来年は、と、時間を見遙かす前に、山ほどの書類を片付けねば。

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2014年

12月

01日

12月です。

 今日から12月。マイトシマイトシこんなことばかり言っている。早いもんだ。いい加減,この「早いもんだ。」という自然現象を覚えなければならないね。

 それにしても早い。時間の流れ、地球の飛ぶスピード、そんなものとは別の何か違う物理量が我々の中に行き来しているのではないか。

 そんな早さについて行けず,長者原のコスモスたちは先週まで「まだ咲いているもんね。」的に揺れていたが、今朝は「はい、モウサイナラ、また来年ね。」とバタバタと店じまいである。傍らに並ぶ銀杏の並木も、黄色の葉っぱを脱ぐように散らしてほとんど裸に近くなった。

 昨日、キルケゴールについての話を聴いたけれど、生誕200年なんだと。あの栄養失調のような姿がどこそこに載っている思想家はヨーロッパの北の方でやはり「もう12月だなあ。」なんて思っていたのかね。「単独者」をかって乗せていた地球が今日も回る。太陽の周りを200回ほど回ったこの星は今日、我らを乗せてクルクル回る。地の喧噪も、おそらく宇宙では無音に等しい。



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2014年

11月

24日

もう11月も終わり

 もう11月も終わる。短かった夏の代わりというわけでもないだろうが、今年はやたらと秋が美しい。9月に父が急逝して、少ししんみりしているせいだろうか。なんでもない木々の葉に日が射して、晴れきった秋空をバックに風に揺れているのを見たりすると、「きれいだな。」と見入る裏側になにやらさみしいような感慨がはっきりとある。「この明るさの中に、ひとつの素朴な琴を置けば、秋の美しさに耐えかねて、琴は静かに鳴り出すだろう。」と八木重吉が歌った詩を思い出して、ほんとに「秋の明るさだ。」なんて、街角でボーッとしてる。少しアブナイ雰囲気かもしれない。

 福岡を含めて九州の空はまるきりの青ではない。わずかだが、黄土色がまぶしてあるような空だ。このことを教えてくれたのは小学校3,4年の時の担任だったY先生だ。Y先生はちょっとした画家で、図画工作の時間に外で写生をしていると、「空は何色に見える?」と尋ねられた。僕は何をきくんだろうと思って、「青色?」と答えると、「君の目はふしあなかい?僕の目には小さな黄土色が見えるけど、君の目には見えないの?」と、空を見上げて眼を細めながら、にっこりされたのを思い出す。それ以来、僕の頭上の福岡の空は,ほんの少し黄土色のつぶつぶが混じった水色の空だ。

 Y先生も僕が知らない間に、この世を去ってしまわれていた。自由であること、人に優しくすること、美しいものにあこがれること、そんなことを僕はY先生から教わった気がする。

 

 人は去る。人は残る。立ち止まるわけにはいかないが、すこしゆっくり歩みを緩めているこの頃である。 

 

 名月や我ら地に在りものを食む  芝道

 

 

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2014年

4月

27日

久々に湯布院に行った。

 大分の帰りに久々に湯布院に寄って、喫茶「あーでん」でコーヒー飲んで、バッハのパルティータを聴いてきました。相変わらず、素晴らしい音響で、新緑が窓から染み込む店の中で、グリューミオがいつ果てるともなくバッハを奏でて、贅沢な時間でした。

 由布の町に下りたら、これまた相変わらずの観光客いっぱいで、車で行くのがはばかれる混雑でした。しかし、まだ春浅い湯布院盆地に雨の前の涼しい風が吹き抜けていて、木々はどれも若々しく緑で、由布岳の威風を見上げながら、久しぶりに気持ちよく由布の通りを歩いてきました。

 時々行かなきゃね、湯布院は。

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2014年

3月

27日

桜もきれいだが、、、.

 世は春。すこおし肌寒いこともあるが、眼を上げれば、あちこちに桜が咲いている。「オオシ、今年もオレらの季節がやってきたぜ。」と言わんばかりの咲き様だ。もう数日経つと、狂わんばかりの満開になるだろう。

 ・・・

 クリニックの裏手の駐車場の片隅にこの花たちは去年も咲いて、今年も咲いた。アスファルトのわずかな亀裂に落ちた種が地中に根を降ろして、春を待っていたんだ。桜も咲くさ。春だもの。しかし、この花たちのきれいなことと言ったら。数日前の雨の朝に、この黄色い可憐な花を見つけたときには、ハッとして半分眠っていた眼が一気に覚めた思いでしたね。しみじみ、嬉しい春の訪れです。

 

 

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2014年

3月

09日

沖縄に行った。

 沖縄は北部、名護市に行って漢方の話をした。その後、友人のO先生とO先生の友人のI先生と3人でとあるペンションで食事をした。ひとりではとても行けない沖縄も端っこの方、名護市から車で30分くらいだったか、備瀬崎という東シナ海に突き出た岬の近くだ。と言っても、そんなことは後から調べて分かって驚いたんで、行ってる途中や食べてる時には何もワカランやったわけです。

 ただただオドロキの料理の品々。鯛、貝、海藻、豚、などなど、開高健は食べ物と女性を書き現さなくては筆をもって世に立つと言うことにはならない、と言ったけれど、ボクは文筆のプロではもちろんないから、あっさり降参して、ただただオドロキだった、と言ってしまいます。

 お土産に包んでくれた(これも何の葉っぱだか知らないが、沖縄の葉っぱで包んでくれるわけです。)ブットイ太巻き寿司のスゴイこと、美味しいこと。

 また、行くゼイ。5月までしかやらないそうで、再開は11月と言うことなので、11月、秋も深まる頃、また行くぞ。カナラズ。

 また、オーナー・シェフ熊本さんの沖縄の風光そのままのお人柄が何とも言えずいいわけで、暖かく、楽しい食事のひとときでした。

 写真は、最初マグロのクリーム煮かと思ったが、なんと正真正銘のアグー豚の赤身のお粥煮だと。正体聞いて、びっくりして、箸付けた後だったけど記録しました。

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2014年

2月

28日

56才になった。

 去年55才だった。ついこのあいだ、56才になった。おそらく0才だった頃のボクの写真が残っていて、裸で畳に腹ばいになって遊んでいるんだが、この赤ん坊が56年間生きて、こうなったわけで、ナントモ言葉にならない、小さく息を吸ってそのまま吐けずにいるような感慨です。

 ちょっと昔なら、56というと、定年で『お父さん、ご苦労さんでした。これからはのんびり過ごしてください。』という歳だったんじゃないかしらね。

 ところがどっこい、56になったボクは、そんな『しみじみ来し方振り返り』の日々なんてトンデモナイ。今日の息継ぎに懸命の日々です。

 それでも、行きつけの中洲のスナック『凡』で、小さなお祝いをしてくれましたよ。友人のTさんがプレゼントしてくださった極上のチョコレートケーキに56本は無理だから、はしょって5本のロウソクを立てて、カラオケのハッピバスデを歌ってくれました。ありがとう!なんとなく御灯明みたいでしたが。

 患者さんがよく言われます。「先生、歳は取りたくないねえ。」そう、そうでしょう。56なんてまだ若輩だから、70、80の御歴々のそういった感想の真意は分からないんでしょうがね。90ぐらいになると、そういった感想はあまりおっしゃらなくなりますな。

 で、映画「ヴィーナス」です。

 昨年亡くなったピーター・オトゥール主演で、『アラビアのロレンス』「おしゃれ泥棒」『ラ・マンチャの男』の彼の最後の主演作品と言うことで、56才の記念に(意味はあまりありませんが)観てみました。老境というものをカンバスに『生きること』のおかしさと悲哀が上品なタッチで描かれていましたね。56才のボクは、80近いモーリス(ピーター・オトゥール)の恋に全身全霊で賛成。彼女にプレゼントするために老いた身体にむち打って倒れそうになりながら仕事をして金を稼ぐモーリス。そう、仕事のひとつの本質はこれですよ。手術後の尿道カテーテルをぶら下げて、彼女とデートするモーリス。そう、歩ける限り好きな人と歩かなければ、何のための道か。ピーター・オトゥールはよく映画の中で臨終するけれど、この映画でもまた見事な、いい臨終でした。

 

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2014年

2月

24日

「蜩ノ記」を読んだ。

 羽田空港で時間ができたので、『本』という看板のところに行ったら、文庫本ばかりで、葉室麟さんの「蜩ノ記」があったんで買って読んだ。羽田の喧騒を逃れて、フォートナムメイソンの店に行って読んだ。次の日の夕方、涙をこらえながら読み終えた。

 読書ってのはいいもんだな、と読み終えた後、少し肌寒い街を散歩しながら思った。とても身体に良い物を美味しく食べたような感じだ。忘れていて、思い出すことがとても難しかったことを、しみじみと思い出した感じだ。昔は信じていた美しい話を、もう一度美しい声で聴かされた感じだ。

 少年が投げる礫でしぶきを上げる清流、水面のきらめき、日焼けした少年のまっすぐな眼差し、最終章で主人公達が見上げる夏の空、それらが見てきたかのように、今もボクの眼の裏にある。

 今年はたくさん本を読むぞと、密かに決めているけれど、本も選ばないとねえ。読んでみないと分からないってのは、それはそうなんだが、、、。

 いやあ、いい読書でした。

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2014年

2月

06日

吉野弘さんが亡くなられた。

 詩人の吉野弘さんが亡くなられていた。吉野弘さん、とか言ったって、直接存じ上げているわけではないから、さん付けで呼ぶのは面はゆいというか、どこか妙なんですがね。

 けれど、若い頃、そう、20か21の頃、彼が編んだ『祝婚歌』という詩のアンソロジーに触れて以来、ずっと心の中に忘れなかった詩人です。昔、何かのテレビドラマで森繁久弥が「ふたりがむつまじくいるためには・・・」という一節がある、今ではすっかり有名になった彼の詩を実にうまく朗読したのを聞いて、「今の詩はいったい誰の何という詩なんだろう。」と思っていて、そのアンソロジーの中で再びその詩に出会ったときは、嬉しかったね。

 「正しいことを言うときには、控えめに言う方がいい。」というフレーズなんかは、半ばボクのモットーだね。(実際はなかなかそうはいってないんだけど)

 合掌

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2014年

2月

03日

早いもんです。

 早いもんです。と、去年も同じことをつぶやいてまわっていたな、今頃。もう2月なんで、今日は節分なんだそうで、歳の数+1個の豆を食べなきゃならんのだそうで、そんなこと真面目にしてたらおなかを壊しそうだ。

 ナンてったって時間てのは止まることなくずんずん進んでいくんだから、「ちょっと待て、コラ。」なんてわけにはいかないんだ。今更嘆いても仕方がない。

 時間がいつ始まったかって?そう、そんなことはどうでもいいことなんだが、昔、「地下鉄の車両はどうやって入れたんでしょうねえ?」なんて漫才が流行ってましたが、ほんとに『時間てのはいつチクタク始まったんでしょう?』

 それと、この宇宙というやつはビッグバンとか言うでっかい爆発から始まったと言うけれど、その爆発の前は何があったんだろう?

 このあたりがよく分からないから、ビッグバンの話はボクにはしっくりこないんです。

 で、そのことをちゃんと教えてくれている本に出会いました。

『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス著/青木薫訳 文藝春秋

 これですよ、これ。一所懸命読みました。で、よく分からないんだ。「何もない『無』の空間から突如として宇宙が始まって、それは極めて必然なことなんだと。フーン、てなもんです。

 でも宇宙の始まりが今から約130億4000万年前だと言うことがほぼ確実だとか、その計算が福岡の天神から糸島までの距離を測るのに1cmぐらいの誤差で測るほどなんだとか、いうことを聞かされると、なんだか、その方面で頭を絞っている方々はおんなじ人間なんだろうか、とさえ思いますね。

 さらに、この宇宙はあと2兆年くらいすると(2チョウネンデッセ、2チョウネン)もう銀河系から他の銀河が遠ざかるスピードがあまりにも速くなってしまって、何にも見えなくなり、宇宙が広大だと言うことも、ビッグバンがあったらしいとか言うことさえも、分からなくなるんだそうな。

 フーン、てなもんです。

 宇宙は『無』から始まった。宇宙のあらゆる物質はその大昔の『無』の空間が突如として膨張しはじめたことで生まれたものだ。

 昼に食った魚フライ定食も、喫茶店で飲んだシナモンコーヒーなる毛色の変わったコーヒーも、それを持ってきたウェイトレスのお姉さんも、みんな130億4000万年前の『無』から始まり、そして『無』に帰って行くんだ。

 そのような物理量の物理的な連続の中にボクたちがいると言うこと。物が落ちるように、ボクたちがあるということ。このことは、なんだかしみじみと半ば冷たく半ば爽やかにというか、さっぱりというか、事実だけが持つ非人情の美というか、よくわからんけれども、読み終わってくっきりと残りましたね。

 ナニが、あっという間の2月だ。こちとら2兆年の途中だぞ、オイ。

 

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2014年

1月

01日

2014年になりました。

 気合いを入れていようと、ボーッとしていようと、地球は太陽の周りをぐるっと一周して、一年が過ぎるわけで、毎年毎年似たようなことをしながらカレンダーが新しくなります。

 去年は『忙中閑あり』だ!とか息巻いていましたが、『閑』はなかったですね。『忙』の方はしっかり忠実な執事のようにいつもつかず離れず傍らにいましたけど。

 で、今年はもう『閑』は求めない。しかし、『忙』にも騒がない。

泰然自若。もう悟達の境地で粛々と日々を送るのです。というのは真っ赤な妄想で、そんなことできゃしませんよ。どうせ、何かに追いまくられて、尻に火が付いたような心もちで一年365日が過ぎて行くに決まっておる。

 それで結構。無理が利かない中高年の心身を大事にしながら、行くよぉぉ、この荒野ぉぉ!!  ちとお屠蘇を飲み過ぎたかいな。

 てなわけで、今年のマイ・レゾルーションは、

  Festina Lente

  『悠々として急げ。』だ。

え、あんまりかわり映えしないって?そりゃそうだ、一年間全く成長してないんだから。

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