2014年

2月

28日

56才になった。

 去年55才だった。ついこのあいだ、56才になった。おそらく0才だった頃のボクの写真が残っていて、裸で畳に腹ばいになって遊んでいるんだが、この赤ん坊が56年間生きて、こうなったわけで、ナントモ言葉にならない、小さく息を吸ってそのまま吐けずにいるような感慨です。

 ちょっと昔なら、56というと、定年で『お父さん、ご苦労さんでした。これからはのんびり過ごしてください。』という歳だったんじゃないかしらね。

 ところがどっこい、56になったボクは、そんな『しみじみ来し方振り返り』の日々なんてトンデモナイ。今日の息継ぎに懸命の日々です。

 それでも、行きつけの中洲のスナック『凡』で、小さなお祝いをしてくれましたよ。友人のTさんがプレゼントしてくださった極上のチョコレートケーキに56本は無理だから、はしょって5本のロウソクを立てて、カラオケのハッピバスデを歌ってくれました。ありがとう!なんとなく御灯明みたいでしたが。

 患者さんがよく言われます。「先生、歳は取りたくないねえ。」そう、そうでしょう。56なんてまだ若輩だから、70、80の御歴々のそういった感想の真意は分からないんでしょうがね。90ぐらいになると、そういった感想はあまりおっしゃらなくなりますな。

 で、映画「ヴィーナス」です。

 昨年亡くなったピーター・オトゥール主演で、『アラビアのロレンス』「おしゃれ泥棒」『ラ・マンチャの男』の彼の最後の主演作品と言うことで、56才の記念に(意味はあまりありませんが)観てみました。老境というものをカンバスに『生きること』のおかしさと悲哀が上品なタッチで描かれていましたね。56才のボクは、80近いモーリス(ピーター・オトゥール)の恋に全身全霊で賛成。彼女にプレゼントするために老いた身体にむち打って倒れそうになりながら仕事をして金を稼ぐモーリス。そう、仕事のひとつの本質はこれですよ。手術後の尿道カテーテルをぶら下げて、彼女とデートするモーリス。そう、歩ける限り好きな人と歩かなければ、何のための道か。ピーター・オトゥールはよく映画の中で臨終するけれど、この映画でもまた見事な、いい臨終でした。

 

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2014年

2月

24日

「蜩ノ記」を読んだ。

 羽田空港で時間ができたので、『本』という看板のところに行ったら、文庫本ばかりで、葉室麟さんの「蜩ノ記」があったんで買って読んだ。羽田の喧騒を逃れて、フォートナムメイソンの店に行って読んだ。次の日の夕方、涙をこらえながら読み終えた。

 読書ってのはいいもんだな、と読み終えた後、少し肌寒い街を散歩しながら思った。とても身体に良い物を美味しく食べたような感じだ。忘れていて、思い出すことがとても難しかったことを、しみじみと思い出した感じだ。昔は信じていた美しい話を、もう一度美しい声で聴かされた感じだ。

 少年が投げる礫でしぶきを上げる清流、水面のきらめき、日焼けした少年のまっすぐな眼差し、最終章で主人公達が見上げる夏の空、それらが見てきたかのように、今もボクの眼の裏にある。

 今年はたくさん本を読むぞと、密かに決めているけれど、本も選ばないとねえ。読んでみないと分からないってのは、それはそうなんだが、、、。

 いやあ、いい読書でした。

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2014年

2月

06日

吉野弘さんが亡くなられた。

 詩人の吉野弘さんが亡くなられていた。吉野弘さん、とか言ったって、直接存じ上げているわけではないから、さん付けで呼ぶのは面はゆいというか、どこか妙なんですがね。

 けれど、若い頃、そう、20か21の頃、彼が編んだ『祝婚歌』という詩のアンソロジーに触れて以来、ずっと心の中に忘れなかった詩人です。昔、何かのテレビドラマで森繁久弥が「ふたりがむつまじくいるためには・・・」という一節がある、今ではすっかり有名になった彼の詩を実にうまく朗読したのを聞いて、「今の詩はいったい誰の何という詩なんだろう。」と思っていて、そのアンソロジーの中で再びその詩に出会ったときは、嬉しかったね。

 「正しいことを言うときには、控えめに言う方がいい。」というフレーズなんかは、半ばボクのモットーだね。(実際はなかなかそうはいってないんだけど)

 合掌

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2014年

2月

03日

早いもんです。

 早いもんです。と、去年も同じことをつぶやいてまわっていたな、今頃。もう2月なんで、今日は節分なんだそうで、歳の数+1個の豆を食べなきゃならんのだそうで、そんなこと真面目にしてたらおなかを壊しそうだ。

 ナンてったって時間てのは止まることなくずんずん進んでいくんだから、「ちょっと待て、コラ。」なんてわけにはいかないんだ。今更嘆いても仕方がない。

 時間がいつ始まったかって?そう、そんなことはどうでもいいことなんだが、昔、「地下鉄の車両はどうやって入れたんでしょうねえ?」なんて漫才が流行ってましたが、ほんとに『時間てのはいつチクタク始まったんでしょう?』

 それと、この宇宙というやつはビッグバンとか言うでっかい爆発から始まったと言うけれど、その爆発の前は何があったんだろう?

 このあたりがよく分からないから、ビッグバンの話はボクにはしっくりこないんです。

 で、そのことをちゃんと教えてくれている本に出会いました。

『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス著/青木薫訳 文藝春秋

 これですよ、これ。一所懸命読みました。で、よく分からないんだ。「何もない『無』の空間から突如として宇宙が始まって、それは極めて必然なことなんだと。フーン、てなもんです。

 でも宇宙の始まりが今から約130億4000万年前だと言うことがほぼ確実だとか、その計算が福岡の天神から糸島までの距離を測るのに1cmぐらいの誤差で測るほどなんだとか、いうことを聞かされると、なんだか、その方面で頭を絞っている方々はおんなじ人間なんだろうか、とさえ思いますね。

 さらに、この宇宙はあと2兆年くらいすると(2チョウネンデッセ、2チョウネン)もう銀河系から他の銀河が遠ざかるスピードがあまりにも速くなってしまって、何にも見えなくなり、宇宙が広大だと言うことも、ビッグバンがあったらしいとか言うことさえも、分からなくなるんだそうな。

 フーン、てなもんです。

 宇宙は『無』から始まった。宇宙のあらゆる物質はその大昔の『無』の空間が突如として膨張しはじめたことで生まれたものだ。

 昼に食った魚フライ定食も、喫茶店で飲んだシナモンコーヒーなる毛色の変わったコーヒーも、それを持ってきたウェイトレスのお姉さんも、みんな130億4000万年前の『無』から始まり、そして『無』に帰って行くんだ。

 そのような物理量の物理的な連続の中にボクたちがいると言うこと。物が落ちるように、ボクたちがあるということ。このことは、なんだかしみじみと半ば冷たく半ば爽やかにというか、さっぱりというか、事実だけが持つ非人情の美というか、よくわからんけれども、読み終わってくっきりと残りましたね。

 ナニが、あっという間の2月だ。こちとら2兆年の途中だぞ、オイ。

 

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