2013年

2月

28日

早、3月

 ついこの間新年の抱負とかなんとか宣言したかと思えば、明日からは三月。なんということだ。2月は四捨五入で還暦を迎えて、なんということだ、と嘆いたのもつかの間、すでに一年の6分の1が過ぎたのである。元旦からここまで、あっという間だったから、あと五回、「あっ」と言えば、来年になるという算数だ。どうする!いったい、このけたたましいほどのスピードは、いったいなんだ?

 〜まあ、そう目をつり上げて声を張りあげなさんな。君と君を取り巻く世界の時間の早さは太初の昔からかわっとらんのだよ。もちろん君が生まれてから、急に早くなったこともない。問題は君の、その落ち着きのない処世にある。なんだ、いいおじさんが。座る前から、立ち上がることばかり考えて。右足を出す前から、左足を出そうとしながら歩いてやがる。そんな腰つきで、「閑」もへったくれもあるもんか!〜

 明日より三月。我が家の窓際に家内が飾った小さな薔薇のたたずまいを見習って、この送別の月を迎えましょう。今回はやや神妙。

 

明日はもう五十五なるか来し方の何ほどもなきを知り尽くしおり  

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2013年

2月

27日

福岡・三越に

何にしても新しいスタートはいいもんで、期待も不安も勢い盛んな炎のように清潔に感じられるもんです。福岡の三越にブルックス・ブラザーズが新しい店舗をオープンしました。ブルックス・ブラザーズのファンとしては、見過ごせない訳です。従来のきっちり品良くすっきりと、のコンセプトを離れて、やや若向けの品揃え、「元気な若者,カッコヨク歩こうぜ」的な雰囲気です。ブルックスに、こんな一面があったのね、と感じました。「まだまだ若い!」という「もう若くない」宣言をしてしまう前に、若くて明るいブルックス・ブラザーズを着こなしてみるのもいいかもしれねー。街の風が違う趣でそよいでくるかも、などと妄想しました。福岡・三越7階です。

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2013年

2月

23日

街の書たち・その3

 街の書ではないけれど、映画の題字や配役の紹介の字なんかに思わず見とれることがあります。昨年亡くなられた書家の今井凌雪先生が黒澤明監督の映画「乱」の題字を書かれましたが、あんな大家の書が立派なのは当たり前と言えば当たり前で、そんなんじゃなくて、誰が書いたのとも知れない字でいい字のことがあって,目が離せません。これは映画「浪人街」の字です。主役の浪人を原田芳郎が汗臭く演じていました。相手役は樋口可南子で色っぽい夜鷹が良かった。七人の侍系の骨太の時代劇です。それにしても、この字、いいなあ。レンタルDVDを巻き戻して?何回も見ました。腕に覚えの人が書いたに違いない。こういう強い線質の字は最近あまりないね。一画一画グイグイと、力が入る字です。映画も力が入るいい映画でした。

映画 「浪人街」(松竹)
映画 「浪人街」(松竹)
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2013年

2月

22日

街の書たち・その2

羽田空港の長い通路の壁面にこれを見た時は驚きました。しばらく立ち止まって眺めたもんです。商業文字とは言いますが、これはもう立派な書です。チューブから絵の具をそのまま絞り出しながら、書いたのかもしれません。線の終わりが何となくそんな感じです。こんなに「自在」に書けるなら、筆なんぞイラン、という感じですね。椅子の宣伝ですが、そのコンセプトがよく出ていると思いますね。上手い!感服!で、次に上京したときにはもうないんだ、これが。また、何か目を引く字がないかと、思ってベルトコンベアーに乗っかりながら探してますが、ないね、もう。「坐道自在」あれきりでした。サイナラ。また、どこかでお会いしたいもんです。ハイ。

 

 

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2013年

2月

12日

街の書たち・その1

 字にはいろいろその字相のようなものがあって、悲しそうだとか、嬉しそうだとか、決意を秘めた様相だとか、自由奔放「オレの世界」的だとか、イロイロサマザマ、人の顔のごとくです。僕がことに気にするのはレストランや喫茶店、その他食べ物関係のお店の看板の字です。まず旨そうでなくっちゃね。字と言っても書と言ってもいいけれど、その面構えが不味そうじゃ話にならない。一見、一瞥、見ただけで「オッ、こりゃ旨そうだね。」と半分店に入ったような気になるような看板がいいじゃないの。全国いろいろお店の字を見てきましたが、今のところこの「皿皿些(サラサラサ)」が一番だね。大分市の繁華街、半分酔っ払った僕の目は白い灯りに裏打ちされたこの字達に釘付けになった。上手い!旨そう!楽しそう!きっと、ここの料理は人を幸せにするだろ。そんな気分になるね。で、店に入ったかというと、これがまだ縁がない。大分市にはちょいちょい行くけれど、酔っ払いは酔っ払いなりに忙しくて、このお店がまだやってるのかどうかも知らないのだ。やってたら、今度はゼッタイ行くで!

皿皿些
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2013年

2月

06日

菜の花の絵が届きました。

 知人に絵を描く女性がいて、その時々の作品を貸してくれます。夏には海の絵を、秋にはコスモスを。そろそろ春、でもないけど畑に菜の花が咲き始めているなと思っていたら、菜の花の絵が届きました。彼女は僕が医者になり始めの頃の主任さんで(研修医ふぜいよりはるかに医療に詳しく、腕も確かだった)後に看護師長になり、だいぶ前に退職されて、好きな絵を描いて「絵描き」三昧の日々をすごしておられます。クリニックの待合室には、僕の下手な書とプロの絵描きの絵とプロ級の写真をいくつか掛けていますが、観るものをなんだか気持ちよくさせてくれる点では彼女の絵が一番です。邪心のないというか、本当に絵が好きで描いている絵です。まっすぐなKさんの心情そのものの絵です。患者さんも時折掛け替えられる彼女の絵を楽しみにしています。僕は写真が下手で絵の魅力の4分の1も伝わらないけれど、K女史作「菜の花」をアップします。

 で、今、アップの了承を得るために、数年ぶりに電話で話したら、なんと彼女は自転車それもあのタイヤが小さな街乗り用の自転車で東海道を京都から東京まで走破したんだと。もう、旧街道はほとんど走破していて、残るは青森までで、今年は「やるだろうね。」とのたもうておられた。僕が医者に成り立ての頃、病棟の主任だった人だよ。あれから、30年。いやはやたいしたもんです。「奴○の様に働き、王様の様に遊ぶ。」というのはこのようなことだな。いやいや、改めてKさんとはよくぞ出会ったもんだと思いました。

 

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2013年

2月

03日

「王羲之」観てきました。

 東京で新奇な集まりがあると聞いて、物見遊山で出かけたら、たいしたことない内容で、早々に退出して、飛行機まで時間があって、どうすっぺか、と江戸の冬空を眺めていたら、「そうそう、王羲之、王羲之。」と思い出して、上野に行ってきました。

 「書を芸術にした男」とたいそうな謳い文句で、まあ、書聖とあがめられる御仁だから、その通りなのかもしれませんが、実は僕はよくわからんのです。蘭亭序という彼の最高傑作は唐の太宗が手に入れて、その頃の書家達に臨書させて、本物は秘匿したまま、どっかに行っちまったか、焼けたか、なんかでたぶんこの世にはない。で、蘭亭、蘭亭と「書」に少しでも親しむものは、もう至上の宝物の様に言うわけですが、その蘭亭は王羲之が書いたものではないわけだ。まあ、そういう事情は抜きにして、魅力的な書であることはその通り。だけども、僕はそんなにスゴイんか、と思っているのです。あまりまじめに臨書したことがないから、そのスゴサがわからんのだろうな。僕がこの蘭亭序で「はあ、こりゃたいしたもんだ。」と思ったのは、その細字の行書をばかでかく引き延ばして、博物館の壁に掲げているのを観たときです。これだけ引き延ばしても、その書の形がびくともしていない。これはスゴイと思いました。だいたい、小さく書いて、なんとか字形をまとめても、すこし拡大したら目も当てられない、というのがほとんどでしょう。ちょっとしたバランスのずれや、線や点の曖昧さは、小さく書かれてあると、見えにくいわけで、ごまかされちゃうわけです。要するに引き延ばすと、粗もでっかくなるというわけ。ところが、この王羲之の蘭亭序を臨書した作品は、拡大コピーという近代技術にもびくともしない。これにはぶったまげた。ある「完璧」なんでしょう。それを世の書家や書の愛好家達は好んで身につけようとするんでしょうね。ひとつには。

 国立博物館の王羲之や王羲之を習った書家達の名品を観た後で、まだ時間があったので、鶯谷まで行って「書道博物館」に行って来ました。鶯谷のなにやら怪しい宿泊施設街の間を抜けて、なんと正岡子規住居跡の子規庵のまん前に台東区立書道博物館はありました。中村不折創設のこの博物館は一度行ってみたかったんです。上野の博物館には比べようがない規模ですが、僕はこちらの展示の方が良かったです。人もいないしね。

 そうそう、王羲之という人はなかなか人間らしい人物で、真珠が好きだったとか、その真珠がなくなったのを居合わせた親友の僧侶のせいにして絶交状態になったとか、五石散という漢方薬を好んで飲んでいたとか、ミニ知識はおもしろかったね。五石散は高揚させる作用が強い薬で、飲んだ後に散歩して心身を発揚させないと危ない薬だったそうで、「散歩」の由来はここにあるとかなんとか。皆さん、ご存じでしたか?僕はちーともしらなんだ。

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2013年

2月

03日

「解錠師」を読みました。

 スティーヴ・ハミルトン作「解錠師」を読んだ。アメリカ探偵作家クラブ賞と英国推理作家協会賞の受賞作で、結構長い話だけど、すらすら読んでしまった。「プロの金庫破り」になってしまった少年の成長が書かれているわけだが、この少年が幼少時の心的外傷のためか「声が出せない」少年で、絵の才能があり、恋人に絵を描くことで、自分の気持ちや過去を伝えるといった設定が言わせないね。

 アメリカの推理作家協会というと、僕はロバート・B・パーカーに一時期はまっていた。スペンサーシリーズは随分追っかけて読みました。マッチョ指向のどうしようもない小説と非難する向きもあるようですが、「人生に対する姿勢」だとか、「行動の規範」だとかいろいろ考えさせられたもんです。最初の方は新鮮だったスペンサーと恋人スーザンとの会話はなんだか飽きてしまいましたがね。「それを行って正しいかどうか、と言うことは、それをした後にすっきりするかどうか、で決まる。」というヘミングウェイの定義はこのシリーズの中で知りました。

 「日はまた昇る」や「移動謝肉祭」のヘミングウェイも悲しいけど、R・B・パーカーも全編なんだか悲しいね。「解錠師」もとてつもなく悲しい。けれど、前方に光がある。かすかながらに明るさがある。それを信じて、うつむいてはいない少年の独白で小説は終わります。「ずいぶん時間がかかったけれど、何か言ってみせる。かならず。」

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